大和証券の歴代社長

名前 実績・評価・経歴など

荻野明彦

(おぎの・あきひこ)

荻野明彦

【就任期間】
2024年4月~
理系出身ならではのAI活用に期待。

就任時の年齢

58歳

発表日

2023年12月22日

就任日

2017年4月1日

直前の役職

副社長

同時に行われた幹部人事

中田誠司社長は会長
日比野隆司会長は特別顧問に

出身

静岡県

大学

早稲田大学理工学部(1989年卒業)

入社年次

1989年(平成元年)

社内キャリア

企画と人事の経験が長い。2008年10月1日から秘書室長。 その後、社長の懐刀である「経営企画部長」に就任。 当時の鈴木茂晴社長の右腕になった。 後任の日比野社長や中田社長の時代も、 社長のブレインとして成長戦略の立案や他業種との提携に取り組んだ。
2014年4月から執行役員
2017年から常務、2019年専務、2020年取締役専務、
2022年から副社長

就任前の実績

ワーク・ライフ・バランス推進

エクシブ投資顧問によると、2008年4月に人事部内に設置された「ワーク・ライフ・バランス推進室」(人員7人うち専任1人)の初代室長に就任した。子育て中の残業免除や有給休暇といった既存の制度の利用率向上を図った。長時間労働是正にも取り組んだ。会議の効率化などを社内に提案した。

刀(かたな)との資本提携

専務時代の2020年1月、刀(かたな)と資本提携を結んだ。 140億円を出資。 沖縄県北部のテーマパーク「ジャングリア」に資金を投じた。


中田誠司

(なかた・せいじ)

中田誠司

【就任期間】
2017年4月~
2024年3月

<インタビュー>
地味なキャラクターだが頑張った。

就任時の年齢

56歳

発表日

2017年1月30日

就任日

2017年4月1日

直前の役職

副社長

同時に行われた幹部人事

日比野隆司社長(当時61歳)は代表権のない会長に
鈴木茂晴会長(当時69歳)は最高顧問に

出身

東京都

大学

早稲田大学政経学部(1983年卒業)

入社年次

1983年(昭和58年)

社内キャリア

法人部門の担当が長かった。社長になる直前は個人営業の責任者を務めていた。
2009年大和証券グループ本社取締役
2016年副社長

就任前の実績

個人営業の改革

営業本部の推進体制を180度変えた。本部主導で個別商品の販売目標を決めていたが、支店に決めさせることにした。長らくトップダウンだった営業がボトムアップに変わった。
支店と支店長の評価体系も変えた。評価項目のうち「顧客満足度」と「人材マネジメント」が占める比率を、従前の2割から4割程度に高めた。

就任後の実績・取り組み

ラップ口座の残高を伸ばす

株式市場の動きに左右されにくいストック型収入による資産管理型ビジネスの確立に取り組んだ。 その一環として、顧客から預かった資産を一任して運用する「ファンドラップ」の販売に力を入れた。 結果として、ラップ口座の1契約当たり残高は業界平均よりも伸びた。 また、投資信託の残高に応じた手数料をもらう「投信フレックスプラン」を拡大した。

ゆうちょ銀行の活用

提携先のゆうちょ銀行でファンドラップの販売を始めた。40名のサポート部隊をつくり全国7カ所に配置。各地域のゆうちょ銀行の販売支援に乗り出した。

チーフ・インベストメント・オフィス

2021年、高度な投資戦略を助言する「CIO準備室」を立ち上げた。個人投資家を対象に、機関投資家と同等な高度な運用戦略を使って、顧客の資産運用全体をアドバイスできる体制を構築するためだった。
CIOはチーフ・インベストメント・オフィスの略。国内外の金融市場や産業に関する情報を集め、特定の商品ではなく、資産全体に関する独自の投資助言をする組織を指す。


日比野隆司

(ひびの・たかし)

日比野隆司

【就任期間】
2011年4月~
2017年3月

<就任会見>

国内の個人営業を強化した。海外では東南アジアなどで提携戦略を推し進めた。

就任時の年齢

55歳

発表日

2011年2月1日

就任

2011年4月1日

直前の役職

副社長

就任の背景

グループ本社に加えて、「個人ビジネス」「法人ビジネス」の2つの子会社のトップを兼ねた。
もともと大和が個人部門と法人部門を2つの会社に切り分けたのは、1999年に旧住友銀行(現三井住友)との提携に伴って法人部門を旧住友との共同出資会社にしたためだった。
だが、2009年に三井住友との提携を解消し、法人部門は100%子会社になった。銀行の傘下ではなく独立系として再出発した。「車の両輪」である個人・法人の両事業を別々の会社で手掛ける意味は薄れていた。

同時に行われた幹部人事

鈴木茂晴社長(63)は代表権のない会長に
清田瞭会長(65)は退任
それまで個人部門の大和証券社長は鈴木氏が兼務。キャピタル・マーケッツは吉留真氏(59)が社長を務めていたが、吉留氏も退任した。

出身

岐阜県

大学

東大法卒
(1979年卒業)

入社年次

1979年(昭和54年)

社内キャリア

リテールの経験がなかったため、役員になってからリテール部門の経営会議に出席するようになった。
2004年大和証券グループ本社取締役
2009年副社長

抱負

「大和証券と大和証券キャピタル・マーケッツの子会社2社の連携と、グループ本社を含めた3社の経営効率を高める必要がある」
「アジア事業については、リテールの競争力を高め、アジアを代表する証券会社になることが目標。先行コストが業績を圧迫しているが早急に仕上げ、成果を出したい」

実績・取り組み

個人部門と法人部門を合併

2012年4月、傘下で個人向け業務を担当する大和証券と、法人向け業務を担当する大和証券キャピタル・マーケッツ(CM)を合併した。
2社併存の弊害により手薄になっていた「ミドルマーケット」を開拓することを目指すとした。ミドルとは全国の未上場事業法人、公益法人、地域金融機関を指す。
個人、法人で分けると個人はより個人に、法人は巨大な機関投資家や国際展開する企業に焦点を当ててしまいがちだが、これを転換することを狙った。

海外縮小

2011年、海外で300人を超す人員削減を打ち出した。ロンドンや香港で実施してきた自己運用部門を撤収させた。
ミラノやドバイの拠点も閉鎖した。パリやフランクフルトでの株式関連の営業も閉鎖した。

サービス縮小

2011年、国内株式や個人向け国債の「ダイワPTS」や店頭CFDの「ダイワ株X」のサービスを終了した。

ネット専業「GMOクリック証券」と提携

2015年、インターネット専業証券「GMOクリックホールディングス」と資本提携した。親会社GMOインターネットからGMOクリックの発行済み株式総数の9.6%を約100億円で買い取った。GMOクリックはFXの最大手。
大和証券としては、GMOクリック証券の顧客である若い世代を取り込むのが、提携の目的だった。大和も自前でネット取引を手掛けているが、高コストがネックとなり、自前だけの成長には限界があった。
もともと大和とGMOは関係が深かった。GMOグループ各社のIPOで大和が主幹事を務めてみた。大和の鈴木茂晴会長とGMO創業者の熊谷正寿社長は親交があった。

業績

2014年3月期に最高益を更新した。


鈴木茂晴

(すずき・しげはる)

鈴木茂晴

【就任期間】
2004年6月~
2011年3月

<会長時代の講演>

<日証協会長時代のテレビ出演>

就任時の年齢

57歳

発表日

2004年4月17日

就任日

2004年6月の株主総会後の取締役会

直前の役職

子会社の大和証券SMBC専務(2002年6月から)

同時に行われた役員人事

清田瞭・大和証券SMBC社長(当時58歳)は大和証券グループ本社副会長に。
大和証券SMBCの後任社長に、グループ本社の斎藤辰栄専務(当時56歳)が就任
鈴木氏は、個人向け事業会社「大和証券」の社長も兼務

大学

慶応大学経済学部(1971年卒業)

入社年次

1971年

社内キャリア

投資銀行業務の経験が長かった。
住友銀行と合弁で立ち上げた大和証券SMBCに2002年、専務として赴任した。

就任前の実績

住友銀行との資本提携交渉をまとめた

住友銀行との提携交渉をめぐり、前任の原社長から担当に指名された。交渉人として箔をつけるため、ヒラ取締役から1年で常務になった。
交渉は対立も多く、難航したが、大和証券の株価が300円を割り込み、危険水域に差し掛かった。資本力を高め、経営の安定を取り戻すために数千億円規模の出資が必要だった。
最終的な出資額は合計5000億円。大和が3000億円、住友が2000億円で決着した。

実績・取り組み

個人部門を強化

社長就任時、法人部門ばかりが脚光を浴びる状態が続いていた。支店の営業部隊はしらけ、くさっていた。個人営業部門はしっかり稼いでいたが、正当に評価されていないという不満が、支店の現場に漂っていた。
通常、大和証券の社長はまず顧客企業のトップや業界団体、政府関係者などへのあいさつ回りが始まる。しかし、鈴木氏はまず支店を回った。それも京都、福岡などの大きな店ではなく、社長が足を運んだことがないような地方支店だった。
支店を回ってみると、施設などの職場環境は30年前に鈴木氏が営業の現場にいたころと変わっていなかった。古く、汚かった。蛍光灯がむき出しになった天井、スチール製の机やロッカー。トイレは暗く、女子社員がポーチを置くスペースもなかった。多くの支店では男子トイレが女子トイレより大きかった。そこで、さっそく設備等の改善を指示した。予算は200億円にのぼった。
例えば以下のような内容だった。
(1)スチール製の備品を高級感あるものに変える
(2)トイレは大きい方を女子用にして、化粧道具をおけるスペースを作る
昇格面でも支店を優遇し、昇給や賞与も個人営業部門を手厚くした。本社にいて文句があるなら支店に転勤を希望しろと言うと、何人か優秀な若手が手を挙げたという。

三井住友との提携解消

2010年、法人向け証券分野で三井住友フィナンシャルグループとの提携を解消した。これにより、銀行グループに左右されないフリーハンドを持つことができた。
独立系になったことで、大手銀行の公募増資の引受団にはすべて参加し、共同主幹事を務めた。富士通やホンダファイナンスの社債でも初めて主幹事となった。ほかにも系列外のシェアが上がった。

資産コンサルタントを支店に配置

個人が証券会社に投資を一任する「ラップ口座」をテコに、預かり資産を積み上げる戦略が一定の成果をあげた。「資産コンサルタント」と呼ばれる専門家を支店に配置し、相続を含めた幅広い顧客ニーズに対応する試みで先行した。これらは主に中高年層をターゲットにしたものだった。

ネット証券

2010年7月からネットの信用取引の手数料を業界最低水準に下げた。

社内の不祥事

増資インサイダー

鈴木氏が退任した翌年の2012年7月、大和証券は、傘下の旧大和証券キャピタル・マーケッツ(CM)社員が企業の増資情報を公表前に漏らしたとする「増資インサイダー」を巡る社内調査結果を発表した。
報告書では同社社員が機密情報を不正に漏らしたと認定した。鈴木氏は事件当時CEOだった。責任をとり、会長としての基本報酬が3カ月間10%減額となった。

社長退任後のポスト

代表権のない会長

財界・団体・社外活動

日証協会長

2017年から日本証券業協会(日証協)の会長を務めた。2021年6月退任。
この間、積み立て型の少額投資非課税制度(つみたてNISA)の期限延長など、長期の資産形成を後押しする制度改正などに取り組んだ。貯蓄から投資の促進に向けて税制改革を訴えた。
証券業界でのSDGs(持続可能な開発目標)の普及にも注力した。

東京都顧問

2021年2月、東京都の顧問に就任した。都顧問は小池百合子知事に助言する非常勤特別職。国際金融都市構想の推進や環境先進都市の実現に向けて、鈴木氏の知見や経験を生かすことが期待された。


原良也

(はら・よしなり)

原良也

【就任期間】
1997年10月~
2004年6月

54歳という若さで就任した。前任社長が、総会屋への利益供与事件の責任を取って退任せざるを得なくなった。社長だけでなく、代表取締役7人が一斉に退陣した。これを受けて。社内序列19番目だった原氏が、一気にトップに抜擢された。

就任時の年齢

54歳

発表日

1997年9月24日(臨時取締役会)

就任日

1997年10月1日付

直前の役職

常務

就任の背景

決定の1週間前の1997年9月18日、総会屋への利益供与事件で、東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が大和証券に家宅捜索に入った。
大和は、社内外にケジメをつけるうえで経営首脳陣の刷新が不可欠と判断した。すでに野村証券、山一証券が利益供与事件でトップ交代を余儀なくされていた。
原氏は社内序列が19番目だったが、株式部や総務部など今回の事件の関連担当には直接タッチしていなかったことが、人選の決め手となった。
大和では、土井会長を頂点にした17年間の長期体制が敷かれてきた。組織全体が土井グループでまとまっており、派閥争いは少なかったとされる。原氏も、土井グループの一人と見られていた。

同時に行われた幹部人事

代表権を持つ7人が一斉に顧問に退任。具体的には、江坂元穂社長、土井定包会長、同前雅弘副会長の3人と楠田氏を除く4人の副社長。
千野相談役名誉会長も顧問に。
楠田智昭副社長が代表権のない会長に。
清田瞭常務が代表取締役副社長に昇格。

若返り

前の土井・同前・江坂の3氏の平均年齢が63.3歳だったのに対し、今度の楠田・原・清田3氏は55歳。8歳以上若返った。

生年月日

1943年(昭和18年)4月

出身

大阪府岸和田市

子供時代

父は税関職員だった。母は裕福な織物工場の娘だった。
出身地の大阪・岸和田は織物業が盛んだった。父方の祖父の実家にあたる本家が庄屋で裕福だった。祖父は織物工場に出資し、経営に加わっていた。
しかし、祖父は土地を担保に入れてまで糸相場に手を出し、そのうち、工場は倒産してしまったという。
職業軍人でもあった父親は、復員後に市役所の公務員になった。祖父の失敗が反面教師になったようだ。
戦後に父は胸を患った。長男だった原氏は力仕事で頼りにされ、学校の合間に農作業を手伝ったという。

大学

和歌山大経済学部卒
(1967年卒業)

入社年次

1967年(昭和42年)

社内キャリア

最初の赴任地は大阪・難波支店

入社後の最初の赴任地は大阪・難波支店だった。営業の担当になった。敬老の日に顧客へ敬老を祝う電報を送り、喜ばれたという。
仕事が軌道に乗ってくると、副社長賞を何度か受賞した。

役員秘書に

1980年(昭和55年)に東京本社に異動になり、役員秘書になった。1980年11月末という時期はずれの異動だった。
役員秘書には、国際、商品、そして私のいた営業の各部門から秘書が1人ずつ選ばれた。それまでの庶務的な秘書ではなく、経営陣のブレーンとしての役割を担わせるためだったという。
経営と現場をつなぐ、風通しのいい経営体制をつくるためだった。法令順守(コンプライアンス)体制確立の第一歩だった。営業現場の第一線から秘書室に配属されるのは異例のことだった。

法人部門に

1年半で事業法人部門に異動した。1982年(昭和57年)の事業法人第1部の課長に始まり、担当常務を卒業する1997年(平成9年)春までの15年間は、バブル経済の生成から崩壊後の後始末に至る過程だった。そのど真ん中にいた。
従来の証券会社の法人部門といえば、社債発行を中心に、顧客企業の事業に必要な資金を調達するのが主な仕事だった。ところがバブル期になると、余剰資金の運用を促し、さらには調達して運用する「稼ぐ財務」を助長した。企業の株式持ち合い構造も作り上げた。
結局、証券会社にとって王道ともいえる法人部門の在籍が長くなり、幅広い人脈を築いた。事業法人副本部長、本部長を歴任した。
1991年 取締役・事業法人営業副本部長
1995年 常務・法人副本部長
1996年 事業法人本部担当
1997年5月 エクイティ本部長

就任時に会社が直面していた課題

危機的な状況

原氏が社長に就任した1997年は、証券・金融業界にとって、暗黒時代の幕開けを告げる年だった。
金融機関の経営不安に加え、所得税減税の打ち切りや消費増税で内需が落ち込んだ。
アジア通貨危機など海外でも悪材料が相次ぎ、日経平均は1万4000円台まで沈んだ。
大和証券も、総会屋利益供与事件によるダメージを受けた。社会的な信用問題が落ち込んだだけでなく、債券格付けが投機的とされる一歩手前の「トリプルBマイナス」まで下落した。
山一証券が自主廃業するというショッキングな出来事も起きた。バブル崩壊後、含み損のある有価証券を簿外で抱え、相場回復を待っていたのだが、命運が尽きた。
日本版ビッグバンの本格化により、既存・新規市場での多方面にわたるしのぎ合いが展開されつつあった。
さらにシェア拡大に拍車がかかる外資系証券や銀行などとの競争が激化しようとしていた。大和証券は大ピンチだったのだ。

1998年も続く混乱

1998年になっても株価は下げ止まらず、経営危機は証券から銀行へ飛び火した。
日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などが相次いで危機に追い込まれた。証券業界でも山一に続いて準大手クラスで経営悪化が次々と表面化した。
大和証券も何か資本対策を講じないと、株価下落に歯止めがかからず、短期金融市場での資金調達に支障を来すような状況に陥った。

住友銀行との提携

そこで、原氏が選択したのは徹底した住友銀行(現:三井住友銀行)との提携だった。社長就任後間もなく、住友銀行の西川善文頭取と会談した。
金融ビッグバンの中で、最強の投資銀行をつくろうと意気投合した。交渉は西川氏1対1で進めることが多かったという。互いに譲らず、激しく意見をぶつけ合ったこともあったようだ。
こうした証券と銀行との歴史的な提携が実現した。1998年(平成10年)7月に住友銀行と戦略提携で基本合意した。それに基づき。1999年(平成11年)4月、共同出資の大和証券SBキャピタル・マーケッツ(後の大和証券SMBC)を設立した。

持ち株会社

純粋持ち株会社形態によるグループの再編も行った。国内上場企業で初めての持ち株会社制への移行だった。

過去の清算

7年間の社長在任中、過去の清算に取り組んだ。

社長退任後のポスト

代表権のない会長に退いた(当時61歳)。


江坂元穂

(えさか・もとお)

江坂元穂

【就任期間】
1992年3月~
1997年9月

就任時の年齢

57歳

発表日

1992年3月11日

就任日

1992年3月11日

就任の背景

評価損の出た顧客の株式を転売する「飛ばし」を、大和証券が行っていたことが発覚した。大和証券は800億円を超える賠償金を支払うことになった。
大揺れとなった1992年3月11日午後、江坂氏は会長室に呼び出された。そこで、土井定包会長と引責辞任した同前雅弘・前社長の2人から「社長辞任でケジメをつける。後を頼む」と突然バトンタッチを言い渡された。事前の打診は一切なかったという。
3月11日という中途半端な就任日だった。

前任者も不祥事で退任

前任の同前氏も1989年10月当時、損失補てんで土井社長が事実上の引責辞任したのを受け、後任に就いた。同前氏の在任中の1991年に再び損失補てんが発覚した。そして、また「飛ばし」事件が明るみにでた。

同時に行われた幹部人事

同前雅弘社長はヒラ取締役へ降格
法人部門を担当する石田譲副社長、伊予本宏取締役が飛ばし事件に関連して退任

生年月日

1935年(昭和10年)。

出身

東京都。父親は、芝浦工機(東芝機械)取締役の江坂喜三郎氏

大学

東京大学農学部
(1959年卒業)

学生時代

学生時代は農業経済を専攻し、経済学者のシュンペーターを信奉した。大学の卒業論文のテーマは「価格論」。当時はちょうど価格形成で「利回り論」など新たな理論も注目されはじめた時期だった。
他の企業の入社試験も受けるつもりだったが、早い時期に決まった大和証券に入社した。「広く経済にかかわれるから」というのが、証券界に身を投じた理由だった。
入社後は大学の専攻で学んだことをすぐに実践することになった。「毎日が面白くてしようがなかった」とのめり込んでいった。

入社年次

1959年(昭和34年)

社内キャリア

引き受けや金融法人担当などを中心に歩いてきた。
人事部長、札幌支店長、引受部長などを歴任した。
1984年(昭和59年)取締役。
常務、専務を経て、
1991年から副社長。

就任前の実績

管理本部、監査本部、システム本部の担当役員として、一連の不祥事の後の社内管理体制見直しの先頭に立って来た。

就任時の人物評

社内評価は「温厚な人」。「部下の話をじっくり聞き、決して怒らない」という評価。「証券界には珍しいジェントルマン」との声もあった。
冷静な判断力と、手堅い仕事ぶりは社内外で評判。前任の同前社長も「知性的で、クールな判断力の持ち主」と評した。
「損失補てん」や「飛ばし」問題で傷ついた社内モラルの立て直しには打ってつけと見る向きが多かった。

趣味など

テニス、囲碁、観劇、バイオリン演奏など。囲碁は5段の腕前。
高校時代はバレーボールの選手。大学時代にはバイオリン奏者としてオーケストラの一員を務めた。
社長就任後、自分の時間が減った。その分、効率的な時間の使い方をするようになったという。例えば、以前は半日かけていたテニスの練習を1時間で集中的にすることや、帰宅後わずか10分間でも毎日バイオリンを弾くことなどを心がけたという。
自宅に外国の学生などを国籍を問わずホームステイさせていた。

実績・取り組み

機構改革

社内の機構を改革した。株式部、転換社債部など商品別に組織していたのをやめ、機関投資家向け、個人客向けなどとして、1人の顧客には1人の社員が株も転換社債もワラント債も責任をもって売れるように改めた。
株や債券など、商品ごとに「これだけ売ってこい」という従来型のノルマを廃止した。


同前雅弘

(どうぜん・まさひろ)

同前雅弘

【就任期間】
1989年10月~
1991年3月

長期政権だった土井・前社長の抜擢によって社長になった。しかし、「飛ばし事件」によってわずか1年半で退任した。

就任時の年齢

53歳

発表日

1989年10月23日

就任日

1989年10月23日の取締役会
※午前8時に土井社長に呼ばれ、突然言われたという。

直前の役職

副社長

就任の背景

スピード昇格

社長人事の4か月前の1989年6月、3人の副社長が一斉に退任した。この中には、次期社長候補の1人とされていた奥本英一朗副社長も含まれていた。留任した山名二郎副社長も、アジア金融投資会社の初代社長に就任することが内定していた。同時に、同前雅弘専務ら4人の専務が副社長に昇格した。在任8年8カ月になる土井定包社長が近い将来、同前氏にバトンタッチするための社内体制を整える人事だった。同前氏は常務から副社長になってからわずか4か月で社長へのスピード昇格を果たした。

同時に行われた幹部人事

土井定包社長は副会長に
千野宜時会長は留任
木村浩一、山下剛正両専務が副社長に昇格。
田崎和副社長は12月12日付で退任し、大和土地建物社長に就任。 。
※以上の人事により、千野会長が業界、財界を、土井副会長が大和証券グループを、同前社長が社業全般をみるトロイカ体制で進むことになった。
このほか、奥本副社長は、大和証券経済研究所を母体として新たに発足する大和総合研究所(大和総研)社長に。
河村直治副社長は日本相互証券社長、
山中一郎副社長は大和投資顧問社長に転出した。
(参照・出典:プレナス投資顧問

生年月日

1936年(昭和11年)生まれ

大学

京都大学法学部
(1959年卒業)

入社年次

1959年(昭和34年)

社内キャリア

株式、債券、国際部門を中心に歩んだ。
福岡支店などに勤務した後、国際営業部長、株式部長を務めた。40歳までの7年間、ニューヨークのアメリカ大和証券に勤務した国際派でもある。
1982年から取締役
大手証券4社では初の昭和ふたケタ(11年)生まれの社長誕生となった。

就任時の抱負

「経済の変動にかかわらず、安定した収益を確保できる筋肉質の経営体質を目指したい」

就任前の人物評

「若い人を含め部下の意見によく耳を傾けるネアカ人間」などの評判が聞かれた。

不祥事

飛ばし事件を公表

社長就任から1か月後の1989年11月、菊一岩夫社長時代の損失補填を発表した。

バブル末期の飛ばし事件

社長退任時点の大和証券の当時の説明によれば、飛ばし事件の対象になったのは東急百貨店グループ、東急不動産など6社の計7件。いずれも事業法人第2部長や神戸支店長などを歴任したA部長(当時48歳)が手掛けていたもので、株価の下落で次の転売先が見つからなくなったことから、1991年秋に次々と行き詰まったという。
最大の取引先は東急百貨店グループで、1991年8月ごろからA部長が次々と持ち込んだ取引に応じたものが、焦げ付いた。いずれも一定期間後には利益を上乗せして買い戻す約束を受けた、と東急百貨店側は説明。この段階で法律に禁じられた「利回り保証」が行われていた可能性が大きい。
東急百貨店の今回の投資総額は約905億円に達したが、裏付けとなる有価証券類の時価はその3分の1程度にとどまり、実損となる約600億円の処理をめぐり、双方が対立した。1992年3月9日に東京簡裁で行われた調停で大和が約490億円、東急百貨店が約110億円を負担することで決着した。

社長退任後のポスト

ヒラ取締役。後に代表権のある副会長に昇格したが、再び退任を余儀なくされた。


土井定包

(どい・さだかね)

土井定包

【就任期間】
1980年9月~
1989年10月

山一、日興証券との3つどもえのシェア争いから1歩抜け出し、2位の座を確保した功労者。大和証券のドンと呼ばれた。 社長在任期間は9年に及んだ。社長退任後も強力な影響力を行使し続けた。大和の歴史において、創業者を除けばダントツの存在感を発揮した経営者だった。

就任時の年齢

52歳

就任日・発表日

1980年9月24日(臨時取締役会)

直前の役職

副社長

就任の背景

前任の菊一岩夫社長の後継有力候補は千野冝時副社長だった。
しかし、菊一氏は在任中に絵画購入をめぐる公私混同や女性問題が報道された後、良識派の千野氏らと激しく対立するようになった。千野氏は知性的な人物であり、優れた国際センスの持ち主だった。
両者の対立が激しくなるなか、その間隙をぬって、末席副社長だった土井氏が社長ポストをさらった。
土井氏は当時、社長候補とは見られておらず、いわばケンカ両成敗のスキを突くようにして社長に就任したのだった。土井氏が権謀術数に長けていた面もある。

同時に行われた幹部人事

社長人事の3か月後の12月17日の株主総会後の取締役会で、以下の人事が行われた。
社長候補の最有力だった千野冝時副社長は副会長に
山内会長は留任

生年月日

1928(昭和3)年

出身

佐賀県佐賀郡久保田町

大学

長崎経済専門学校(現長崎大学)
(1948年卒業)

入社年次

1948年(昭和23年)
※入社前は福岡県で保険の営業マンをしていた。優れた営業力が業界で評判となり、大和証券福岡支店の上層部が目をつけた。スカウトされる形で大和証券に入社した。

社内キャリア

個人営業一筋

個人営業部門一筋に歩んだ。
東京の浅草支店の支店長に就任すると、全国1位の支店へと導いた。本店営業部長に昇格した。
1967年取締役に就任。たたき上げの実力派だった。

実績・取り組み

不動の2位に

土井氏は社長になるや攻撃的な経営体質づくりに専心し、野村追撃体制をとった。「野村7割経営」を標榜した。
それが功を奏した。大手証券4社のうち「4位の山一に近い3位」だった業績を、野村証券に次ぐ不動の2位にまで引き上げた。

バブル時代、海外でリサーチ力を強化

このころのバブル時代、日本企業によるアメリカ企業の買収が急増した。米国大和証券の調べでは、1987年106件、金額で8118億円。2年前と比べると金額で10倍近い伸びだった。
1988年3月25日、ニューヨークの不動産王ドナルド・トランプ氏(当時41歳)が保有するトランプタワーの26階にある社長室でトランプ氏と日本の中堅建設会社青木建設などの間で売買契約が調印された。売り物は、プラザホテル。価格は4億750万ドル(512億円)だった。 これに先立つ1987年12月、青木建設は米ウェスティン・ホテルを1740億円で買収していた。
(参照:インベストジャパン
このような時代にあって、大和証券グループは国際化を果敢に進め、投資顧問力やリサーチ力を強めていった。

麻雀政治で人事掌握

麻雀(マージャン)好きで有名だった。月に1、2回、役員や部長たちとマージャンに励んだ。経営者のマージャンというと、当時は料亭で芸者さんがそばにいて、というイメージだった。しかし、会社の近くのジャン荘でやった。腹心の部下と麻雀をするため、その取り巻きは「土井・麻雀人脈」と呼ばれた。
自分が経験してきた本店営業部や管理部門の部下を次々と引き上げた。後任社長の同前雅弘氏、その次の社長になった江坂元穂氏はいずれも土井社長時代の秘書だった。その後の原良也社長も土井人脈だった。
社長以外も関連会社の社長は、ほとんど土井麻雀人脈で固めていた。人事を掌握し、自分の腹心を細かく配置していった。意見を提言する副社長らを次々に外に出すなど「恐怖政治」と形容されることもあった。

日本初の映画投資組合に出資

子会社のベンチャーキャピタル「日本インベストメント・ファイナンス(略称:NIF)」を通じて、 松竹や住友商事などによる日本初の映画投資組合に1億円出資した。
(出典・参照:AIレフェリー

不祥事

大和の暗部に数多くかかわった。

仕手戦

専務時代、平和相互銀行のヂーゼル機器株をめぐる仕手戦において、買い占め玉を投資信託に沈めるシナリオに関与したとされる。

三協エンジニアリング損失補填事件

社長時代に三協エンジニアリング損失補填事件、リクルート事件などにも直面したが、責任は免れた。

リクルート事件

リクルート事件では、リクルート・コスモスの上場時の主幹事会社として批判を浴びた。この事件では、当時の常務がひとり泥をかぶる形になった。

逃げるように社長交代

損失事件が明るみになる1カ月前の1989年10月下旬に突如、社長交代を断行し、副会長になった。「在任9年の長期政権の人心一新」といわれたが、1989年10月初めに三協エンジニアリングの社長が脱税容疑で東京地検に逮捕されたため、「損失」事件の発覚の先手を打って、社長が交代したのでは、という見方が出た。

損失補填事件

後に損失補填事件が発覚した際に、社長の同前氏は引責辞任したが、土井氏は無傷で1991年(平成3年)に会長になった。

社長退任後のポスト

副社長

会長に就任

62歳で会長になった。1997年12月まで会長をした。1998年に顧問に退いた後も社内で隠然たる力を持った。

財界・団体・社外活動

日本証券業協会会長に就任

1994年7月、日本証券業協会会長に就任した。出身母体である大和証券の会長との兼務に、大蔵省は最後まで難色を示した。
証券業界では3年前、損失補てんなどの不祥事が続出、後始末で経営が危うくなる証券会社もあった。これを機に法律が改正され協会が業界の自主規制機関となって以来、協会長には証券会社の役職を離れた人が就任する「専任制」が続いてきた。
自主規制機関となる前は大手証券四社の現役会長が兼任する「輪番制」だったので「不祥事以前に逆戻り」との批判が大蔵省以外にも根強かった。
最終的に1994年6月29日の取締役会で、会長にとどまったまま代表権を返上した。日本証券業協会会長は1996年7月まで務めた。

アナリスト協会会長

1996年、日本証券アナリスト協会会長に就任した。アナリスト(調査、分析の専門家)の質と量の両面で養成を図った。

日本銀行参与

日本銀行参与も務めた。

65歳で運転免許を取得

1993年、65歳の誕生日を機に、車の運転免許を取得した。休日などに娘の車を借りて、人が少ないところで運転した。
土曜日のゴルフ、日曜日の庭いじりが息抜きだった。

晩年

晩年は持病の糖尿病を抱えながら、認知症の妻を介護する日々だった。

地元に貢献

社長就任後から役員賞与の多くを佐賀県の旧久保田町に寄付した。寄付を基に、母校の思斉中に武道場が建設された。
首都圏に住む旧制佐中、佐高、佐賀西高の卒業生でつくる「東京栄城同窓会」の会長を務めた。佐賀県をPRする「吉野ケ里大使」としても活動した。

永眠日

2009年4月
神奈川県鎌倉市内の病院で死去した。

享年

80歳

死因

肺炎


菊一岩夫

(きくいち・いわお)

菊一岩夫

【就任期間】
1974年7月~
1980年9月

就任日

1974年7月2日

直前の役職

筆頭副社長

生年月日

1915年(大正4年)

出身

山口県

大学

下関商業学校
(1923年卒業)

入社年次

1923年卒業(昭和8年)、藤本ビルブローカー証券に入社

社内キャリア

門司支店(北九州市)
債券部などに勤務
1957年に取締役
1962年代表取締役

実績・取り組み

債券ビジネスの強化を打ちだした。

営業部門の強化

営業関係部門の組織を拡大させた。とくに法人の資金運用が重視された。法人課を設置していなかった小規模な支店でも、法人課または公社債営業課が設置された。
東京本店と大阪には、投資相談部が新設された。
また、店頭課が全店に設置された。

偏った人事

1979年(昭和54年)の役員人事では、退任役員6名のうち管理部門と個人営業部門出身者がそれぞれ2名いだったのに対し、新任取締役6名のうち4名は法人部門出身だった。
しかも3部に分けられた事業法人の部長がすべて取締役に昇格した。法人部門の社内における力が著しく強まってきたことを示した。一部には組織の均衡を失するとの評価が出た。
このほか、菊一氏自身が長く業務を担当していた債券部門や、特定の役職員への肩入れが強すぎるとの意見もあった。

不祥事

美術品の不正購入問題

1980年、菊一社長による美術品の不正購入問題を、経済誌が報道した。社内が大揺れとなった。

内紛へ

菊一社長は、経済誌にネタを漏らした「犯人」が、国際派で知られる千野宜時副社長と決めつけた。この結果、社内は、菊一派と千野派が二手に分かれて対立した。

プリンス千野を棚上げ

後任社長の人事では、批判の急先鋒だった千野副社長が棚上げされて副会長に就任した。抜てきされる形で土井副社長(当時)が社長の座についた。

損失補填(飛ばし)事件

大和証券は1989年11月27日に記者会見し、菊一岩夫社長時代の損失補填を明らかにした。
1970年代後半に、株式取引で約100億円に上る損失を出し、ダミー会社につけ回ししたうえ、自社保有株式を売却して穴埋めしていた。
この損失は、大口得意先の企業が株式売買で出した損失を大和が肩代わりした形だった。つまり「損失保証」だ。
特定客への「損失保証」は、リスク(危険)を覚悟して株式に投資している一般投資家への背信行為になる。このため、証券取引法で禁止されている。
営業成績をあげるため、大口取引先の企業などを株式売買に勧誘する際、損失が出ても大和側が肩代わりする約束をしたという。
取引先は広がったが、その損失の累積額は、約30社で計約100億円にも達した。
証券会社がこうした損失を出した場合は、決算に計上し、有価証券報告書に記載しなければならない。
しかし、違法な「損失保証」が明らかになるのを恐れ、大和証券は、取引先の有価証券販売会社「三協エンジニアリング」をダミーに使った。
損失保証した株取引で損が出ると、下落した株を買い入れ価格で引き取らせた。表面上はこのダミー会社が損失を出したことにしていた。
結果的に、自社の損失を自社保有の株式の含み益で埋めた。こうした操作は、菊一社長時代に行われたと推定された。

社長退任後のポスト

相談役

永眠日

1995年11月

享年

80歳

死因

じん不全

死亡場所

横浜市栄区の横浜栄共済病院

葬儀の喪主

長男・利彦(としひこ)氏


山内隆博

(やまうち・たかひろ)

山内隆博

【就任期間】
1970年11月~
1974年7月

証券不況を受けて、住友銀行から招かれた。

就任日

1970年11月

就任の背景

1964年11月、大和証券は住友銀行から山内隆博氏を役員として迎えた。代表権のある専務に就いた。
山内氏は住友銀行では取締役であり、本店支配人であった。
山内の招へいは、大和の福田社長が堀田庄三・住友銀行頭取に依頼して実現した。
大和証券の創立以降、代表取締役を外部から迎えたのは、1946年の松嶋喜作以来18年ぶり、2人目だった。
当時の大和証券は、証券不況下で業績不振に苦しんでいた。いわば山内氏は助っ人だった。その後、順当に社長に昇格した。

同時に行われた幹部人事

安部志雄社長は会長に。
※福田会長は1968年11月に退任していた。

生年月日

1915年(大正4年)3月3日

出身

静岡県磐田市

子供時代

磐田郡見付小学校卒業、東京高千穂中学校卒業、東京成蹊高校卒業

大学

東京帝国大学経済学部
(1938年卒業)

入社年次

1938年、住友銀行に入行

経営理念

「盛り上がりの経営」を提唱した。

実績・取り組み

第2次株式公開ブーム

株価の上昇もあって、1971年~73年に日本で第2次株式公開(IPO)ブームが起きた。大和証券は、コクヨ、ダイエー、京セラの上場の幹事社となった。
このうち、ダイエー株式の上場審査にあたって、大和は「売上仕入方式」を採用した。これは、後に続く流通企業の上場の指針となった。当時のダイエーは、百貨店法への抵触を避けるため、大規模な店舗では別会社形式で店を運営していた。
こうした経営実態を正確に反映させるため、子会社はゼロ決算とした。単体の決算でありながら事実上の連結決算としたのだ。ダイエーの上場時の株価は当時として最高値を記録した。

投資顧問会社を設立

1973年(昭和48年)6月1日、「大和投資顧問」を設立した。証券会社がグループ企業の会社名に「投資顧問業」を明記したのは初めてだった。

イラン国営石油会社の私募債幹事

1972年(昭和47年)11月のイラン国営石油化学会の社債発行において、主幹事を務めた。
この時発行された債券の額は2000万ドル。これにシンジケートローン3600万ドルが加わり、資金調達額は5600万ドルとなった。
当時の行政指導下では本来不可能であったシンジケートローンを実行できたのは、私募債に不可欠の業務という理由で、大蔵省が特例として認めたためだった。
さらに、メキシコ石油公団の私募債でも幹事になった。

アラブ投資家向け日本株投信の設定

オイルマネーの日本市場への導入を促進した。アラブ投資家向けに日本株の投資信託を設定したの設定した。

社長退任後のポスト

1974年6月に取締役会長に就任した。
1980年には相談役に。

財界・団体・社外活動

1978年1月から2年間、日本証券業協会会長を務めた。
静岡県人会会長

永眠日

1990年10月

享年

75歳

死因

肝不全

死亡場所

東京医科大学病院(東京・新宿)


安部志雄

(あべ・ゆきお)

安部志雄

【就任期間】
1963年4月~
1970年11月

三代続けて藤本ビルブローカーの出身者。

出身母体

藤本ビルブローカー

就任日

1963年4月

直前の役職

副社長

生年月日

1901年(明治34年)

大学

東京帝国大学法学部
(1926年卒業)

入社年次

藤本ビルブローカー銀行入行
1926年(大正15年)

社内キャリア

台北支店長、名古屋支店長などを歴任。
1948年、取締役就任
1957年、代表取締役
1958年、副社長

家族

長男は安部朝弘・大和総研専務

息子(長男)の安部朝弘(ともひろ)氏は、大和総研の専務になった。
妻の安部麗子さんは、1997年1月に亡くなった。89歳だった。

実績・取り組み

店舗の統廃合

不採算店舗の統廃合に取り組んだ。店舗数が1963年(昭和38年)9月末で112に達し、肥大化が顕著だった。統廃合に伴い、男子職員は転勤となった。 就任2年目の1964年6月に神田支店(東京)など5店を閉鎖。それ以降、全国的に閉鎖を行った。1965年9月末には店舗数が83に減った。 対象店の女子職員等については、当時は原則として現地採用だっため、転勤させられなかった。そこで、人事部長が1人1人面接の上、再就職の斡旋を行った。

投資コンサルタント制度の導入

1965年(昭和40年)11月、投資コンサルタント制度を導入した。証券取引法の改正に伴い、次元の高い投資勧誘態度を確立するためだった。社員の専門知識と顧客に対する投資指導能力を向上させることを目的としていた。
部長など上司の推薦を受けた一定以上の資格を有する職員に対し筆記、実習、面接の3段階の選考を行った。合格した人に「投資コンサルタント」の称号を与えた。

永眠日

1974年6月24日

享年

73歳

死因

役員を兼務していた日本証券協会の会合の場で倒れた。そのまま死去した。


福田千里

(ふくだ・ちさと)

福田千里

【就任期間】
1957年11月~
1963年4月

直前の役職

副社長

就任の背景

前社長の同期かつ同窓

前社長の岡村氏と同期。かつ大学の同窓であった。年齢は岡村氏の3歳下だった。
福田氏は岡村氏に1年遅れて取締役、常務となった。専務取締役となり、代表権を付与された時期は2人同時であった。

既定路線

福田氏の社長就任は、岡村氏の既定の方針だったという。1953年(昭和28年)、岡村氏の社長就任時に副社長ポストを導入し、1年後に福田を副社長に指名した。社長昇格が既定路線となった。

二代続けて藤本から

二代続けて藤本ビルブローカーからの社長となった。発足以来続いてきた「日本信託」と「藤本」出身者が交互に社長に就任するという「たすき掛け人事」が終わった。

同時に行われた幹部人事

岡村社長は会長に。
加藤和根会長は退任して大和土地建物の社長職に専念。
取締役は加藤氏を含む6人が退任。8人の新任取締役は全員40歳代だった。

大学

京都帝国大学経済学部
(1921年卒業)

入社年次

1921年(大正10年)
※藤本ビルブローカー銀行

社内キャリア

1942年(昭和14年)1月、台北支店長から本店に戻った。債券部長に就任した。

抱負

「昔から石橋をたたいて渡るということがある。渡る前にたたいてみるという細心の注意は必要だが、たたいてみて安全だと見きわめながら遂に渡らずに終るものもある。それではだめだ。大丈夫だと思ったら思い切って渡ることだ。そこに細心大胆という言葉の意味がある」

経営方針


自らの座右の銘である「細心大胆」を大和証券の社訓に制定し、経営の基本方針とした。

実績・取り組み

社訓の制定や日の丸精神の発揚を行った。

社長退任後のポスト

会長
※会長職は、岡村前会長が退任した後、空席となっていた。

財界・団体・社外活動

日証協の会長に(1963年~1968年)

1963年(昭和38年)4月、社長時代に日本証券業協会(当時:日本証券業協会連合会)会長も務めることになった。大和証券が同協会の会長を務めるのは初めてのことであった。
以来、日証協トップとして、証券不況を乗り切るため株式買い取り機関である日本証券保有組合の設立に尽力した。1968年まで務めた。
この間、昭和40年の「証券不況」が襲った。証券業が免許制に移行する証券界の一大変革期だった。免許制への移行をめぐって政府の審議に参画した。

永眠日

1992年12月26日

享年

96歳


岡村新市

(おかむら・しんいち)

岡村新市

【就任期間】
1953年11月~
1957年11月

同時に行われた幹部人事

社長だった加藤和根は会長に

大学

京都帝国大学経済学部
(1921年卒業)

入社年次

1921年(大正10年)
※藤本ビルブローカー銀行

社内キャリア

海外勤務

1927年(昭和2年)から、藤本ビルブローカーの米国法人「ゼ・フジモト・セキュリチース・コンパニー」に配属された。在外邦人を相手に日本の債券や株式を販売した。
当時の証券界では珍しい海外業務経験の持主となった。サンフランシスコやロサンゼルスの支店長を務めた。1934年(昭和9年)7月に帰国した。


加藤和根

(かとう・かずね)

加藤和根

【就任期間】
1949年9月~
1953年11月

経済学者としても活動した知性派

出身母体

日本信託銀行

就任

1949年(昭和24年)9月

直前の役職

専務

就任の背景

政界に転出した会長が辞任

3年前、渡辺自身が当社の会長として迎え入れた松嶋喜作が、取締役辞任を申出た。政界活動に専念するためだった。役員としての任期が満了となるタイミングだった。
1949年9月17日に開かれた重役会は、この申出を受理した。引続いて互選の結果、渡辺を取締役会長に選んだ。渡辺の後任として専務取締役加藤和根を社長に選出した。

同時に行われた幹部人事

渡辺安太郎社長は会長に

大学

東京高等商業
(1918年卒業)

入社年次

1918年(大正7年)、住友銀行
1921年(大正10年)に創業間もない日本信託銀行に移った。

社内キャリア

日本信託銀行東京支店で、藤本ビルブローカーとの合併業務を担当した。

人柄・人物

『銀行原価計算』『貸付事務概論』などを著している学究肌の人物であった。

実績・取り組み

証券民主化運動によって一般個人の株投資への関心が深まったのを受けて、出張投資相談を開設した。「タダで通勤」のキャッチ・フレーズで1950年(昭和25年)4月以降、主要ターミナル駅に臨時投資相談所を開設していった。当初の私鉄駅構内から百貨店や商店内にも置かれるようになり、設置場所も全国へと拡がった。
配当復活をとらえた「見直さるべき銀行株」の推奨を行った。密接な関係にある事業会社の株式の保有を地方銀行などの大口筋に依頼する「安定工作株の安定株主への販売」運動も進めた。

妻・加藤美知子さんの死去

永眠日:1986年3月
享年:84歳
死因:急性腹膜炎

渡辺安太郎

(わたなべ・やすたろう)

渡辺安太郎

【就任期間】
1945年4月~
1949年9月

終戦の直前に就任し、戦後の混乱期に指揮にあたった。

出身母体

藤本ビルブローカー

直前の役職

専務

同時に行われた幹部人事

車谷馬太郎社長は空席となっていた会長職に転じた。
※三輪小十郎会長は1年前に退任していた。

大学

京都帝国大学法学部

入社年次

1920年(大正9年)、藤本ビルブローカー銀行へ入行。

社内キャリア

北九州市の門司(もじ)支店長などを歴任。1934年、東京支店に赴任。
日本信託銀行との合併問題では、大蔵省や日本銀行との折衝に努めた。

実績・取り組み

第二次世界大戦の真っただ中。終戦の4カ月前の1945年4月に就任した。証券取引所が再開されるまでの4年5ヵ月務めた。戦後の苦難と混乱の時期にあって、経営再建の陣頭指揮をとった。
任期中、以下の課題に取り組んだ。

  • 合併後の社内の融和
  • 新しい拠点である東京での態勢固め
  • 財界との折衝

会長に元興銀幹部を招く

興銀の理事だった松嶋喜作を会長として招いた。渡辺社長にとって、1918年京都帝国大学卒業の先輩だった。1946年7月の人事だった。代表権を持つ会長となった。
松嶋氏は1947年4月の参院選に出馬した。民主化して最初の参院選だった。自由党の公認を得て、全国区から立候補した。
大和証券は一丸となって応援した。当選を果たし、自由党政調会長を務めた。1949年には参議院副議長に就任した。
その後、1952年日本製鋼や東京螺子の社長に就任。1956年国鉄諮問委員、翌年に富士航空社長を務めた。


車谷馬太郎

(くるまや・うまたろう)

車谷馬太郎

【就任期間】
1943年12月~
1945年4月

藤本証券(藤本ビルブローカー)と日本信託銀行が合併し、大和証券が誕生した。
1943年(昭和18年)12月付。対等合併だった。
新会社では、会長ポストを藤本側がとり、社長ポストを日本信託銀行がとった。同銀行で社長だった車谷馬太郎氏がそのまま横滑りした。
会長には、藤本の三輪小十郎(みわ・こじゅうろう)氏が就任した。

就任時の年齢

59歳

就任日

1943年12月

直前の役職

日本信託銀行社長

就任の背景

大和証券の発足

1942年、政府の強制により、証券業界の再編が行われた。国家総動員法に基づくものだった。
その流れの中で、1943年12月に藤本証券(藤本ビルブローカーから名称変更)と日本信託銀行が合併した。これによって「大和証券」が誕生した。
会社名は、日銀総裁だった結城豊太郎氏が命名した。「相和して大きくなる」との願いが込められていた。読みは「やまと」ではなく「だいわ」とした。
なお、この日本信託銀行は、戦後に登場する同じ名前の銀行「日本信託銀行」(現:三菱UFJ信託銀行)とは全く関係ない。

「日本信託銀行」 とは

大和証券の母体の一つとなった株式会社「日本信託銀行」 は、1920年に設立された。
大阪株式取引所の機関銀行として発足した。設立にあたって、北浜信託を買収した。さらに、経営破綻した増田ビルブローカー銀行の一部業務を継承した。
相場師・石井定七の投機失敗による損失を被り、1924年に大幅減資を余儀なくされた。この際、藤本証券の支援を受けた。
1943年の藤本証券との合併を受けて、銀行業務を安田銀行(現・みずほ銀行)に営業譲渡した。
日本信託銀行は、日本の証券市場の発展に一定の役割を果たした。国策会社を中心に、企業の発行する公社債発行の引受業務を担った。大阪株式取引所における短期取引の仮引制度の運営を請け負った。

同時に行われた幹部人事

会長には、藤本証券の会長だった三輪小十郎(みわ・こじゅうろう)氏が就任。

生年月日

1883年(明治16年)9月

出身

東京府

大学

東京高等商業専攻部
(1907年卒業)

入社年次

1907年
日本銀行

社内キャリア

大学を卒業後、日本銀行に入行した。1918年まで11年間在籍した。
内田汽船を経て、1922年(大正11年)に日本信託銀行に入行した。総務部長となった。
1929年(昭和4年)常務取締役に就任。大阪株式取引所取引員委員も兼ねた。1941年(昭和16年)に頭取(社長)に就任した。
藤本証券との合併に当っては日本信銀側の設立準備委員となった。

社長退任後のポスト

会長


藤本清兵衛

(ふじもと・せいべえ)

藤本清兵衛

【就任期間】
1902年~
1943年12月

藤本清兵衛は1902年(明治35年)、現在の大和証券を創業した。 自ら経営する「藤本銀行」の一室において立ち上げた。「藤本ビルブローカー」というブランドで、当初は個人事業としてスタートした。

生い立ち

藤本清兵衛は1870年(明治3年)10月15日に生まれた。 出生場所は、和歌山県海草郡(現:海南市)の日方(ひがた)町だった。

幼少期の名前は「柳為之助(やなぎ・ためのすけ)」

生まれたときの名前は「柳為之助(やなぎ・ためのすけ)」だった。藤本清兵衛という名前は、大人になってから改名して付けた名前だ。 実家の親は、米穀商を営んでいた。父親の名前は柳仁兵衛(やなぎ・にへえ)。母親は柳禰(やなぎ・たね)。長男として生まれた。 学業は優秀だった。12、3歳のころ、郡内の小学生を集めて開かれた競争試験で、文部省の賞品を授与されたほどだった。 小学校を卒業した後、家業(米穀商)に従事した。しかし、「どうも田舎ではつまらぬ。大都会へ行って一修業したい」と考えるようになった。

18歳で大阪へ

1887年(明治20年)に大阪へ転居した。18歳だった。米穀仲買商「藤本商店」で働き始めた。英語学校にも通った。 翌年の1888年、藤本商店の店員として正式に採用された。

藤本商店とは

藤本商店は、江戸時代から続く米穀仲買商だった。当初の名前は「住吉屋」だった。 住吉屋を発展させたのは、4代目・住吉屋清兵衛だった。 住吉屋清兵衛は1841年、「丹波国(たんばのくに)」だった。丹波国とは、現在の京都や兵庫などにまたがる地域である。

明治時代に「住吉屋」から「藤本商店」に

明治維新の後に藤本姓を名乗るようになり、「初代・藤本清兵衛」となった。米穀仲買商の屋号も「住吉屋」から「藤本商店」に変えた。

米穀相場の激変で大きな利益を得る

初代・藤本清兵衛は商才に恵まれており、明治維新後における米穀相場の激変の中にあって、多大な利益を得た。同時に、資本を蓄積して家業を盛大ならしめた。

養女と結婚し、後継ぎになる

そのような歴史を持つ「藤本商店」に、柳為之助(後の藤本清兵衛)は入社したのだった。 柳が入社してから4年後の1891年10月、「初代・藤本清兵衛」が死去した。 その後、柳は、初代・藤本清兵衛の養女・壽(川勝重介の孫、八木重助の娘)と結婚した。そして、藤本家の家督を相続した。 名前を変更し、「2代目・藤本清兵衛」を名乗るようになった。この2代目・藤本清兵衛こそが、大和証券の創業者となる人物である。

「藤本銀行」を設立

2代目・藤本清兵衛(以下、「2代目」を省略)は、紡績業に進出した。日清戦争後に需要が増えたためだ。さらに、金融業への進出を決意し、1895年(明治28年)、「合資会社藤本銀行」を設立した。

手形仲買(ビル・ブローカー)業への進出を決意

藤本銀行の設立後、藤本清兵衛は手形仲買(ビル・ブローカー)業の開設の必要性を認識した。 手形の仲買が必要だと感じた理由は、以下の通りである。

  1. (1)金融緩和(低金利)の時期になると、銀行の資金を運用する先がなくなる。
  2. (2)恐慌時になると、銀行間の融通が難しくなる
  3. (3)日本で手形取引が増加している。
  4. (4)手形の判別の必要性が増大している。

以上の理由から、手形仲買に進出することにした。こうして藤本ビルブローカーが誕生したのだった。

藤本ビルブローカーの発足

後に大和証券となる「藤本ビルブローカー」は1902年(明治35年)、藤本銀行の1室で産声を上げた。 当初のビジネスは、商業手形の売買や短期金融取引(コール取引)だった。業務内容は以下の通り。

  1. (1)コール取引
  2. (2)商業手形の売買
  3. (3)担保付手形の売買
  4. (4)銀行間貸借仲立
  5. (5)為替の売買
  6. (6)国債、地方債、社債の売買
英国の手形仲買人をモデルに

なお、ビル・ブローカーは和訳すると「手形仲買人」あるいは「短資会社」である。 藤本清兵衛は、訳語を使うのでなく、あえてビル・ブローカーというカタカナ語を社名に使った。 その理由は、英国におけるビル・ブローカーをモデルとしたためだ。英国のビル・ローカーは、手形仲買にとどまらず、銀行に近いような業務を営んでいた。 清兵衛自身も手形仲買だけでなく、銀行と個人、銀行間の資金融通のための幅広い業務を目指していたのだった。

銀行間の資金融通

とはいえ、日本でビル・ブローカー業を始めたのは藤本清兵衛が最初ではない。 1899年(明治32年)には、実業家・諸井時三郎(諸井春畦)が東京でビル・ブローカー業務を実施していた。 しかし、こうした既存業者は、手形売買の代理業務に限定されていた。 英国のビル・ブローカーのような業務をカバーするビル・ブローカーは「藤本ビルブローカー」が先駆者だった。

日糖の倒産で経営危機に

藤本ビルブローカーは1906年(明治39年)10月、株式会社化を果たした。経営は順調かに見えた。 しかし、一気に倒産の危機に瀕することになった。 1909年1月13日、日本最大の精糖会社「大日本製糖株式会社」(日糖)が債権者に対する支払停止に追い込まれた。藤本ビルブローカー銀行は日糖に対して多額の債権を有していた。 藤本清兵衛自身も、日糖の監査役を務めていた。

会社整理

日糖の破綻が直接の原因となって、藤本ビルブローカー銀行も債務の支払の停止を発表した。すなわち、会社整理に追い込まれたのだ。1909年(明治42年)3月18日のことだった。 八木與三郎(藤本清兵衛の妻・壽の実兄)、著名実業家・渾大防芳造(こんだいぼう・よしぞう)の2人が整理委員となった。

阪急の共同創業者・平賀敏のもとで復興

藤本清兵衛の知人である実業家・平賀敏が顧問に就任した。平賀敏は、小林一三と共に阪急を創業した人物である。 会社整理の責任を取って、藤本清兵衛は1909年(明治42年)9月27日の臨時株主総会にて辞任した。これを受けて清兵衛の実弟・柳広蔵が後任会長に就任したが、翌年辞任。平賀敏が会長となった。

1933年に銀行業を廃止し、証券業に専念

藤本グループは1933年(昭和8年)に銀行業を廃止した。藤本ビルブローカー証券として、証券業に専念することになった。 1942年(昭和17年)7月1日、「藤本証券株式会社」に商号変更した。

退任後

藤本清兵衛は退任後、隠居生活を送ったわけではなかった。1910年(明治43年)7月には、藤本商店の名で有価証券信託業を開業した。以後、土地会社の創設に深く関与した。銀行経営にも参画した。 大正時代までは事業家として活躍を続け、多数の会社の経営陣に名を連ねた。同い年の妻・壽とは一生を添い遂げた。なお、一男二女をもうけた。

参考:酒井剛志