多くの人材(従業員)の仕事や能力が、AIとダブルようになってしまった。

私は、経営者として、これまでいろいろな人材を雇ってきた。 人間の「種類の差」がもたらす結果の違いを、痛いほど味わい続けた。 昨今、この違いが、AI時代になってから、一段と鮮明になった。

多くの人材(従業員)の仕事や能力が、 AIとダブルようになってしまった。

最も特筆すべきことは、 AIが登場する前は大活躍していた従業員であっても、 AIの登場とともに、 「無用の長物」になってしまうという悲劇が起きたことだ。

口の悪い経営者であれば、 「こいつ、いらねえ」なんて言うだろう。 そんな悪い経営者は、論外だ。 糾弾されてしかるべきである。

だが、一面としては事実でもある。 実際、大規模なリストラが起こっている。

私自身は、従業員様を解雇したことは一度もない。 自分からいづらくなって辞めていった。 おそらく「空気を読んだ」のだろう。 なんて高潔な人たちだ!

「人間」の条件

さて、本題に戻ろう。 プレナス投資顧問が掲げる「AI+人間のコラボ」というコンセプトについて。 その「人間」の種類及びクオリティはどうなのかーー。 という問題だ。

これが、今回、プレナスを検証するうえで、 最大の論点だ。

AIを使う側になれるか

まず、投資顧問に限らず、 <AI+人間>という組み合わせを成功させるためには、 その人間なるものが、 「AIを使いこなせる人間」でなきゃいけない。

この「使いこなせる」というのは、 単に「操作できる」というのとは、 全く次元が異なる。

AIを監督し、 AIの弱点を見抜き、指摘し、 かつ弱点を補える存在ではなきゃいけない。

AIの絶対的な弱点

AIには必ず絶対的な弱点がある。 どんな弱点かは、AIの種類にもよるが、おおむね以下の通りだ。

【弱点1:雑である】 AIはクオリティが低く、仕上げが雑だ。 とくに生成AIは酷い。 彼らは、決して仕事を仕上げられない。

「3流」と「1流」の見分け

AIの仕事は、 常に「3流」どまりだ。 よほど鍛えたり、 こちら側が周到におぜん立てを整えてあげても、 せいぜい「2・5流」が限界。 「1流」は絶対に無理だ。

AI学者の目は節穴だらけ

AI学者や浅はかなメディアたちは、 「生成AIすげえ、こんなことできた!」といつも大騒ぎする。

しかし、AIの成果物の中身を、 一流のプロの視点で見ると、 全くレベルが低くて話にならない。

「できた」ように「見える」

単に「できた」ように「見える」だけでは、 絶対ダメ。 大事なのは、その中身のクオリティ。

穴だらけ。矛盾だらけ

文章であれプレゼン資料であれ、、 AIが生成するものは、「できているように見えて、まるっきりできていない」ことばかりだ。 穴だらけ。矛盾だらけ。 部分的には、良いパーツもあるので、 そこだけをくりぬくことは有益だ。

見た目を繕うのは天才

見た目を繕うのは天才だ。 しかし、よく見れば見るほど、「ごまかし」が多い。 完成品とはほど遠い。

人間様がグレードアップ

だから、人間様が最後に修正やグレードアップを行い、 「3流」の成果物を「1流」に引き上げなければならない。

違いが分かるか

しかし、この作業ができる人間は、 大前提として、 「3流」と「1流」の違いが分かるタイプの人間じゃなきゃならない。 「違いが分かる男のゴールドブレンド」のように。 (違いが分かる男が、インスタントコーヒーなんか飲むわけないのだが・・・。)

そうじゃないと、 「AIさんすげえ。もうできてるじゃん!」で終わってしまう。

現場で通用するのか

それでは、 評論家は務まるかも知れないが、 実際の現場の仕事が務まらない。

私は「仕上げられる人間」「途中までの人間」と名付けた

私は、 これができる人間を、 「仕上げられる人間」と呼んでいる。 それ以外を「途中までの人間」と呼んでいる。

1+1を「5」にするには

「仕上げられる人間」とAIが組んだとき、 1+1が5くらいになる。

キャラがかぶってちゃダメ

しかし、 AIと「途中までの人間」が組んでも、 1+1で1.5以下にしかならない。 キャラがかぶって意味をなさないからだ。

評価のポイント

プレナス投資顧問に関していえば、 どんな人物が「人間チーム」に所属しているのかが分からないと、 正当な評価を下すことはできない。

区分け

では、プレナスの評価作業をさらに進めるために、 人間を2つに区分けしたい。

まず、今後の議論の大前提として、2種類の人間について、私の呼称の定義づけを明確にしたい。

  • 「仕上げられる人間」AI時代に存在意義を発揮できる存在
  • 「途中までの人間」AIにとってかわられてしまう存在

以上の定義をふまえ、この2種類にどのような特徴があるのか、以下に一覧にする。

「途中までの人間」と「仕上げられる人間」

「途中までの人間」と「仕上げられる人間」
「途中までの人間」 「仕上げられる人間」
仕事が雑 仕事が緻密
奥が浅い 奥が深い
スピード重視 クオリティ重視
子供的な突破力の持ち主(ちびっ子探偵団) 大人の判断力の持ち主
間違いの常習犯 ダブルチェックができる。事実を検証できる
言われた鵜呑みする傾向 嘘を見抜ける
詰めが甘い とことん詰める。何度も詰める
呼吸が浅い 呼吸が深い
家族計画が行き当たりばったり 家族計画がしっかりできる
フルタイム出場(漫然と仕事場にいる) パートタイム出場(緩急が付けられる)
常に中速度 低速度・高速度の緩急がつけられる
オールマイティ 得意分野を確立できる
すぐ「できた!」と思ってしまう 簡単に「できた」と思わず、執念深く高みを目指す。(その間、いったん「寝かす」ことも知っている)
多動性・注意欠如 集中型


プレナスはどっちだ?

では、プレナスはどっちだ?

プレナスを運営する人々は、「途中までの人間」と「仕上げられる人間」なのか?

答えは、今のところ、分からない。

一緒に働いたことがないからだ。顧客になったこともない。

しかし、プレナスの坂田博社長のプロフィールは気に入った。

ある意味、「本物だ」と直感した。

坂田博氏の海外勤務プロフィール

坂田氏は大学卒業後、第一勧業銀行グループ(現在みずほグループ)の証券会社「勧角(かんかく)証券」(現:みずほ証券)に入社した。勧角証券では、欧州の支店などに派遣され、駐在員として頑張っていたようだ。

「フランクフルト駐在」の凄さ

まず、坂田氏は1980年代後半、西ドイツのフランクフルトに駐在した。フランクフルトがいかに、日本の金融業界にとってホットだったか、下記の一覧を見れば、一目瞭然だ。

当時、日本はバブル時代だった。日本の金融機関も金が余っていた。世界の銀行ランキングの上位は、邦銀が独占していたことは有名だ。

銀行も証券会社も、一斉に欧州への進出を強めた。坂田氏が所属していた第一勧銀グループも、猛烈な勢いで欧州に進出していた。

バブル時代の邦銀(日本の銀行)の欧州進出

現地法人と支店の設立

年月 銀行・拠点名
1987年4月 三菱銀行 ベルギー・ブリュッセル支店
1987年7月 協和銀行 英ロンドン現地法人
1987年9月 北海道拓殖銀行 英ロンドン現地法人
1987年11月 三井銀行 スペイン・バルセロナ支店
1988年2月 三菱銀行 仏パリ支店
1988年3月 東京銀行 蘭アムステルダム現地法人
1988年4月 住友銀行 伊ミラノ現地法人
1988年6月 三和銀行 西独デュッセルドルフ現地法人
1988年7月 三菱銀行 西独フランクフルト現地法人
1988年7月 三井銀行 ルクセンブルク・ルクセンブルク現地法人
1988年7月 第一勧業銀行 西独ミュンヘン支店
1988年8月 三井銀行 仏パリ支店
1988年9月 住友銀行 西独フランクフルト現地法人
1988年9月 東海銀行 西独フランクフルト現地法人
1988年10月 住友銀行 西独フランクフルト支店
1988年11月 三和銀行 仏パリ支店
1988年11月 住友銀行 仏パリ支店


1980年代後半のフランクフルトと邦銀進出

金融の首都

プレナス投資顧問の坂田代表が駐在した1980年代後半のフランクフルトは、単なる西ドイツの一都市ではなかった。政治の首都はボンだったが、金融の首都はフランクフルトだった(現在もそうだ)。そこには西ドイツの中央銀行であるブンデスバンクがあり、ドイツマルクを軸にした金融政策、短期金融市場、資本市場の空気が集中していた。

ドイツマルク市場に入る

銀行や証券会社などの日本の金融機関グループにとって、フランクフルトに拠点を置くことは、「西ドイツに店を出す」という程度の話ではなかった。強い通貨であるドイツマルクの市場に入り、西ドイツ産業と金融の中枢に接続するという意味を持っていた。

欧州最大の工業国家

また、当時の西ドイツは、欧州最大の工業国家だった。自動車、機械、化学、電機などの強い産業を抱え、しかも通貨は国際的な信認の高いドイツマルクであった。

日系企業の拠点

さらに、日本企業にとって西ドイツは欧州市場を攻略するための重要拠点だった。邦銀は、その日系企業に対して、現地融資、為替予約、送金、保証、設備投資資金、輸出入決済などを提供する必要があった。日本の本店から遠隔で処理するだけでは足りない。西ドイツの金融制度、企業社会、資本市場に入り込むには、フランクフルトに実体を持つ必要があった。

EC市場統合をにらむ

しかし、1988年のフランクフルト進出を面白くしているのは、それだけではない。日本の金融機関は単に「日系企業を支えるため」にフランクフルトへ出たのではなく、その先にある1992年のEC市場統合をにらんでいた。

日本の金融機関の西ドイツ攻勢

住友銀行

住友銀行は西ドイツ・フランクフルトに全額出資の現地法人「ドイツ住友銀行」を設立し、1988年9月1日から営業を始めた。資本金は1000万マルク、頭取は野口勝彦氏だった。

大手邦銀が西ドイツにほぼ出そろう

さらに富士銀行、三菱銀行、第一勧業銀行、住友信託銀行なども西ドイツでの現地法人設立を進め、すでに進出していた東京銀行、日本興業銀行と合わせて、大手邦銀が西ドイツにほぼ出そろう流れになった。

なぜ「支店」だけでなく「現地法人」なのか

ここで重要なのは、なぜ「支店」だけでなく「現地法人」なのか、という点である。

銀行と証券が兼営可能

西ドイツは、日本とは違って、銀行と証券業務を兼営できるユニバーサル・バンキング制度を採っていた。つまり銀行は、融資だけでなく、証券引き受けなどにも深く関われる。

マルク債の引き受け

邦銀各行は西ドイツ現地法人を設立することにより、日本企業が西ドイツで発行するマルク債の引き受けなど、主に証券業務に力を入れていくことを狙っていた。

フランクフルト拠点の意義

とりわけ、坂田氏が駐在したフランクフルトに出るということは、単に窓口を置くことではない。マルク建ての資金調達に関わる。日本企業のマルク債発行に関わる。西ドイツのユニバーサル・バンキング制度の中で、融資と証券業務を組み合わせたビジネスを狙う。つまり、フランクフルトを通じて「資本市場」に食い込む道が拓かれるのだ。

ロンドンとは違う役割

その意味で、フランクフルトはロンドンとは違う役割を持っていた。ロンドンは世界金融の中心であり、国際金融の巨大な取引市場だった。一方、フランクフルトは「西ドイツの通貨と産業金融に直接触る場所」だった。

1992年のEC市場統合

さらに、その背後には1992年のEC市場統合が控えていた。あとから見れば、EC統合は大きな歴史の流れとして見える。しかし、1988年時点の金融機関にとっては、制度の細部はまだ不透明だった。どの国の免許が有利になるのか。

先に拠点を押さえる

現地法人を置いておくことが将来どこまで効くのか。証券業務を含むユニバーサル・バンキングがどのように広がるのか。完全には見えていない。 だからこそ、各金融機関は、計画を前倒ししてでも、先に拠点を押さえようとしていた。

勧角証券の戦略と坂田氏のポジショニング

勧角証券もフランクフルトへ急いで拠点を置いた。そして、そのような重要な時期に、坂田氏はそこに送り込まれたことになる。このタイミングは、坂田氏という人物の能力や評価を見定めるうえで、重要なポイントである。

存在感を確保

邦銀や日系証券会社は欧州で「店を増やした」のではない。支店を置き、現地法人を置き、場合によっては証券取引所への上場を進め、BIS規制を意識しながら資本力を示し、EC統合後の巨大市場で金融機関としての存在感を確保しようとしていたのだ。

単なる「バブル時代の海外拠点拡大」ではない

だから、勧角証券のフランクフルト進出は、単なる「バブル時代の海外拠点拡大」ではない。そこには、かなり具体的な金融上の狙いがあった。若手時代の坂田氏は、その戦略の担い手だったのである。

「仕上げ」の男が残った90年代

その後、1990年代に入ってバブルが崩壊すると、日本の金融機関の欧州からの撤退が相次いだ。そして、極めてごく一部のエリートや実力者だけが欧州駐在員として厳選される時代になった。

スイス・チューリッヒ支店長に就任

そんな時代に、坂田氏は、スイス・チューリッヒ支店長に就任。さらに、ロンドンの「勧角ヨーロッパ社長」へと昇格した。つまり、坂田氏は「仕上げの男」として選ばれたわけだ。

私の暫定的な結論~プレナス代表の坂田氏は『仕上げられる人間』

1992年から2008年まで大手新聞社の記者として働き、その後、18年間会社経営者として活動している私としては、ここで一つの暫定的な結論を出せる。「プレナス投資顧問の坂田博代表は、『途中までの人間』でなく『仕上げられる人間』であろう」と。

チューリッヒで活躍した戦後日本の金融人たち

坂田博氏のように、欧州で活躍した戦後・日本の金融人たちを紹介する。

相田雪雄(あいだ・ゆきお)さん=元野村證券会長

戦後の野村證券の「国際化・海外進出」の立役者として知られる相田雪雄・元野村證券(現野村ホールディングス)会長。相田さんは若手時代、アメリカの証券会社、メリル・リンチ社で研修を受けた。その後、しばらくしてから今度はヨーロッパに行った。きっかけは1959年(昭和34年)5月、アメリカからの帰国途中に、スイスのチューリッヒ(チューリヒ)に立ち寄ったことだった。

街で買った本を翻訳し、瀬川美能留社長に見せた

チューリッヒの街の書店で、たまたま「国際金融センターとしてのチューリヒ」という薄っぺらな本を見つけた。当時は、金融市場といえばロンドンとニューヨークが知られていた程度だった。「へえー、面白そうだ」と思って、その本を購入。帰国後、それを自ら一生懸命翻訳して、当時の瀬川美能留社長に見せた。すると、しばらくたってから瀬川社長から「君、もう1度スイスに行って見てこい」と命じられたという。

チューリヒを拠点に欧州の情報収集

スイスへの派遣の目的は、情報収集だった。とくに具体的な命題を与えられたわけではなく、ただ「自分が満足するまで勝手にやってこい」と命じられただけだったという。半年ぐらい、単身でチューリヒを拠点に、ジュネーブ、フランクフルト、パリ、ロンドンなどヨーロッパ中を行ったり来たりしていたのだった。スイスの3大銀行のトップクラスにも面会し、情報収集に努めたという。

1963年に取締役ニューヨーク駐在に抜擢

この経験を買われ、1961年(昭和36年)には外国部長に昇格。1963年(昭和38年)には取締役ニューヨーク駐在に抜擢された。野村証券の国際化に腕を振るうことになった。

海外に次々と支店や現地法人

ロンドン、アムステルダムの事務所作りは、相田さんが直接担当した。その後もフランクフルト、パリ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、香港、シンガポールなどでも、相田さんが指揮をとって次々と支店や現地法人を作っていった。

ロンドン駐在員事務所の開設時に「創業者・野村徳七」を掲げた広告

1964年(昭和39年)にロンドン駐在員事務所を開いた時、相田さんは自分でレイアウトした広告を、ロンドンの有力2紙に出した。京都に眠る野村証券の創業者、野村徳七翁が能の「弁慶」を舞う姿を彫った木像の写真を中心に据え、「歴史と伝統にはぐくまれた創業者精神が、今、京都の地から国際金融の中心地ロンドンに花開く」とうたった広告だった。

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